東京街コラム1~丸の内の景観~

「東京街コラム」の1回目は、丸の内の景観について書いてみたいと思います。丸の内は、地権者と市民の考え方の違いから、景観保護について意見が対立しています。

丸の内のスカイライン 丸の内の景観
丸の内のスカイライン
丸の内の景観

丸の内の起源は、江戸時代の江戸城拡張後、藩邸が多く建てられたことに始まります。全部で24の藩邸が置かれると共に、南北の町奉行所、勘定奉行所も置かれ、武家の町として発展しました。明治時代に入ると、この界隈は官有地となり、陸軍の練兵場として使用されました。そして、練兵場移転を機にこの地は三菱の岩崎弥之助に150万円で買い取られ、そこから丸の内のオフィス街としての歴史が始まります。

明治~昭和中期にかけて、丸の内には最新の技術で作られた大型のオフィスビルが建ち並びます。初期には、ロンドンの煉瓦でできたビルの並ぶ様子がロンドンと似ていたことから「一丁ロンドン」と呼ばれ、大正期には、建築様式がニューヨークになぞらえられ「一丁ニューヨーク」と呼ばれました。ビルには三菱系やその他の大企業が入り、まさに日本経済の中心として街は発展を遂げます。その代表的なものが、建て替えられる前の丸の内ビルでした。丸の内は1933年(昭和8年)に「美観地区」に指定され、都市景観の保護の名目で建築の高さが31mに制限されました。31mで建物が並ぶ様子は「丸の内スカイライン」と呼ばれ、賞賛されました。

その「丸の内スカイライン」が崩れるのは、1966年に東京海上ビルが約99mで建設されてからです。旧丸ビルなどの31mを遥かに超える高さは物議を醸しますが、他のビルも東京海上ビルに追随し、皇居周辺には100m近いビルが建ち並ぶようになりました。さらに1988年には、地権者の三菱地所が「丸の内マンハッタン計画」と呼ばれる再開発計画を打ち立てたことで、いっそう議論が活発化することになります。当初決められた31mどころか、150~200m級のビルをいくつも建てる計画は、景観保護の立場から反対の意見が多く、意見対立がいっそう明らかになりました。そんな中で、丸の内スカイラインのシンボル的な存在だった旧丸ビルが一夜にして取り壊され、新しい丸ビルが建つことになりました。

現在の丸の内は、新しい丸ビルを皮切りに、PCP、丸の内オアゾ、東京ビルTOKIAなどが建設され、丸ビルと共にもう一方の丸の内のシンボルだった東京駅丸の内駅舎までもが増築工事を行っています。もうすぐ新丸の内ビルも完成します。この状況について、市民の声というのはほとんど無視されています。

地権者とデベロッパーの対立というのはよくあります。街づくりについて、新規に参入してきたデベロッパーが既存の地権者と対立する状況です。ですが、丸の内はデベロッパーが地権者でもあり、法的にはデベロッパーの思うがままな状況です。ここに地権者でもデベロッパーでもない「市民」の意見を反映させるというのは難しい話です。デベロッパーはそれでも市民の声を聞いて景観を考慮し、街路に接する建物部分を31m前後に揃えていますが、結果として31m前後の土台の上に塔が聳え立つという、ある意味ものすごくナンセンスなビルが建てられています。これも「市民」の批判の的となっています。

東京駅丸の内駅舎 日本生命丸の内ビルと日本工業倶楽部ビル
東京駅丸の内駅舎
ニッセイ丸の内ビルと日本工業倶楽部ビル

問題は、丸の内という街をどのように捉えるかということだと思います。すなわち、丸の内を都心のビジネスセンターと見るのか、ノスタルジックな歴史的景観と捉えるのか。

私は、「街は生き物」だと思っています。景観は街の魅力を示すひとつの指標であるとは思いますが、景観を重視するあまりに街の機能が死んでしまっては魅力はなくなってしまうと思います。丸の内は、東京駅の目の前に広がる都心の中の都心です。幸い、東京のほかの街にありがちな建物単位の開発ではなく、丸の内は街区ごとの開発が可能な地です。デベロッパーの行き過ぎを抑止するために市民の声を消してはいけないですが、あまりにもノスタルジーに傾斜した景観保護の意見を言うのは少しおかしいかなと思います。生きた街、丸の内にとって、景観を保護することより、未来へ続く景観を創り出すことの方が、街の魅力を引き出す点で重要なのではないかと考えます。

ここまで、デベロッパー寄りの意見を言ってきましたが、今の状況で良いのかと言えば、そうは思いません。私は、「街は文化を生み文化は街を作り出す」と考えますが、デベロッパーサイドが街だけではなく文化の道筋までつけようとしていることがひとつの不安要素です。ニューヨークやサンフランシスコの新興オフィス街区を思わせるようなカフェや広場を作り、「さぁ、ここから新しいビジネスモデルを創り出してくれ」と言わんばかり。自然発生ではなくて予め作ったものによって、文化の自然発生を阻害していないかと感じてしまいます。丸の内で行われるイベントなどにも同様な匂いを感じます。文化とは一種、アンダーグラウンドなところ、アンオフィシャルなところから生まれるのではないかと考えると、今の丸の内がやってることは少し違うのかなと感じずにはいられません。現在多くの新ビジネスが六本木から生まれていることを考えると、その感は強くなります。

外観は老朽化しても、今まで丸の内を形成してきた文化の蓄積はとても多いはずです。新しい丸の内がまだできたばかりで、歴史が積み重ねられてない以上、しょうがない部分もあるのかもしれませんが、すべてを新しく作り上げるのではなく、文化こそ古いものと融合させていくことが、魅力ある街づくりに重要なのではないでしょうか。

もっともらしいことを言ってきましたが、まぁ要するに、丸の内がちょっと居づらくなったんですよね。喫茶店で東スポが読めなくなったとか、ちょっとオシャレに気をつけなきゃ歩くのが恥ずかしくなったとか、そんなところです。新しい丸の内が、活動する人をも選別してきたと強く感じるのです。ブランド店が仲通りを中心にたくさんできましたが、もともと丸の内で働いていた多くのオッサンが、そんな店で買い物するとは思えません。新しい丸の内に来た新しい人が新しい店を利用することは、以前の丸の内文化とはまったく切り離されたところにあると思うのです。一から作り直すことよりも、積み重ねていく努力を大事にして欲しい、街のマインドみたいなところをもっと重視して欲しいなと思います。

丸の内写真集:http://www.marunouchi-photo.com/

トラックバック

トラックバックURL:
http://tokyo-view.com/mt/mt-tb.cgi/19

コメント




ログイン情報を記憶しますか?

(スタイル用のHTMLタグが使えます)

(C) 2006 Tokyo Blog All Rights Reserved.